随分と走ってきた後、遊歩道の木に寄りかかりながら切れ切れの呼吸を整える。
目的地はもうすぐ目の前にある。
一個の家を挟んだその先にはあの洋館…朝の女の子が消えるように入って行ったあの家だ。
僕は呼吸を整えながらも微かに見える屋根に心臓がドクドクと早鐘を響かせていた。
吸いこんだ息をゆっくりと吐き出して心臓があるあたりに手を寄せると僕は握りこぶしを作って睨むように屋敷を見つめる。
怖くない、怖くなんか…ないんだからな!幽霊なんて存在しないし、いたとしても僕は見える体質じゃないから大丈夫だ!
怖がる意識を押えこむように他の気持ちを奮い立たせて一歩一歩と洋館へ近付く。傍から見たら僕は不審者かもしれない、だけど今の僕には少し気になるくらいで変人扱いされることに何ら問題はない。
この妙な興味が早く僕の中から消え去ってくれればそれだけで良い。この不安がなくなれば僕の日常はいつも通りに戻るんだから。
僕はその一心で洋館の前に立つと息を止めた。
あのボロボロに朽ち果てていた場所がすっかりと綺麗になっていたのだ。
割れていた窓も、ゴミだらけだった庭も、屋敷に入る前のあの錆きっていた大門も見違えるほど綺麗でこの薄暗い明りの中でもキラキラと光っている。
朝はこんなではなかったはずだ。
だってあの植物の蔦が血管みたいに浮き上がっているように見えることには変わりがない。
なのにどうしてだろう?朝よりも暗いのに、おどろおどろしく思うのに、どうしてこんなに綺麗だと思うんだろう?やっぱり僕は何か呪いにかかっているのかもしれない。
「数時間でこんなって…嘘だろ」
未だに信じられない頭に口が開く。
僕は恐る恐る大門に手を伸ばすと、パッと門のランプが点灯した。
驚いて手を離すもそれ以上何があるわけでもなくそこはシンと静まり返っている。
僕はもう一度だけ門に手をかけて今度はゆっくりと押してみる。徐々に開いていく門は朝みたいに錆ついた鈍い音なんて立てずに静かに開いた。
脳が一瞬怖いと身体に訴えかけてくるけど、それ以上に好奇心が僕の背中を押す。
この洋館に初めて足を踏み込んだ時のような…ドキドキとソワソワと変な緊張が僕の中で沸々と湧き上がっていく。
一体この中には何があるんだろう?と、凄まじい恐怖と一緒にあった小さな興味はあの頃よりも随分と大きくなって僕の中に戻ってきていた。
僕は洋館のドアの前までタイルで出来た一本の道を歩いて行くと、カーテンの隙間から部屋の明かりがついていることに気付く。
…そうだ今この洋館はお化け屋敷だったさっきまでとは違って人の住んでいる場所なんだ。
って、僕もしかして不法侵入してる感じじゃない?いやでもまだ家の中に入っているわけじゃないし、ここまでならまだセーフだよね?アウト?いやセフト!?ああ意味が分からない!!
混乱してきた頭を軽く横に振って、すぐ目の前にあるドアを見つめて一度深呼吸をしてみる。
なんでか引き返そうって気持ちは僕の中になくて、ただただこの中にあるモノが一体何なのか気になって仕方がなかった。
この大きなドアの向こうは僕の知らない場所になっていて、僕の知り得ない何かが広がっているようにしか思えなくて、僕は人の家だと分かっているくせにドアノブに手を伸ばして戸を、引く。
人肌には若干生温い温度のドアノブは何の躊躇いも無く僕を招き入れるかのように回り、目の前の世界を隔てていたドアを開けてくれる。
足許に伸びる光に僕は息を呑み中を覗き込むように顔を傾け様子を窺う。
「……うわ」
僕の口から無意識に出てきた言葉は広々とした空間に吸い込まれるように消えていった。
目の前に広がったのは如何にもな洋館の室内で、玄関…というよりはエントランスに近い姿をしている。
足許は豪華そうな絨毯が敷かれていて、直ぐ近くには今時見ないダイヤル式の電話がアンティークですと言わんばかりの棚の上に置いてある。
僕は驚きに自然と屋敷の中に足を踏み入れて周りを忙しなく見渡せば、また僕の口からは感嘆の溜息が漏れた。
僕の知らない世界が本当に存在したんだ…こんな場所ドラマとかでしか見たことがない。
なんとなくクラシック音楽まで聞こえてきそうな雰囲気に頭の中がぼんやりとしてきて、もう一度周りを見渡そうとした時だった。
カタリ。なにか硬いものが動く音に振り向けば、気の弱そうに見えるけれど随分と体格のしっかりした男の人が僕を見ていた。ドアを開けた先に僕がいることに少し驚いた後訝しげに眉を潜める。
「君は、誰だ?」
「………あっ」
あ、じゃない。
そうだここは人の家なんだった!なにを平然と見返しているんだ僕は!!
焦りに焦ってしまいなにか言わなきゃいけないと思いながらも頭の中が一瞬で真っ白になってしまい、僕は視線をそらしてしまう。
ああああ!こんな態度が一番怪しいのに!掌に汗が滲んで、背中まで嫌な感じに湿ってきている。
心臓が、心臓が壊れるんじゃないかってくらいに早く脈打っている。
「どうしたの?」
「あぁ…いや、これは誰かと思ってだな」
すらりと聞こえた声にそらした視線をもう一度男の人に向けると、その後ろから今朝見た女の子が不思議そうに僕を見ていた。
透き通るような白い肌に、水色の瞳とキャラメル色のふわふわの髪の毛が良く似合った小柄な女の子。
彼女は僕を見て今朝と同じように数度大きな目を瞬かせると、今度は微笑むような笑みではなく、まるで花が咲くような笑顔を僕に向けてきた。
「クレイン!」
「へ?」
「…なんだ、知り合いか」
それなら問題ないとでも言うように、男の人は僕の横を素通りして向い側にあった部屋にそのまま消えていってしまった。
呆然と男性を見送った僕の前に女の子は嬉しそうに笑いながら駆け寄ってくると僕の手を取る。
まって、ちょっと僕の思考が上手くまとまらないんだけど…いや元々頭を使う事とかって苦手だしってか何この急展開、クレインって僕のこと?
「あ、の…君?」
「朝、私と逢った人だよね?確か鶴って呼ばれてたと思ったから…craneって呼んだけどあってた?」
「…クレ…あぁ、英語か…間違ってはいない、けど」
どうして彼女は僕を助けてくれたんだろう?会っていたとはいえ、今この現状が全くの初対面に近い状態で…偶然彼女が僕の名前を聞いていてくれただけであって、他には何も接点なんてなかったのに。
僕の困惑が表情に出ていたんだろう、彼女は握っていたままの僕の手を引いて玄関の先にある階段に僕を座らせると自分もその隣に腰を下ろす。
長く伸びた髪の毛が地面に惜しげもなく広がっていくと、僕は思わず彼女の髪を手にとって肩にかけ直す。
彼女は僕を見て一瞬目を丸くしたが直ぐにくしゃりと笑った。
そんな彼女を見ながら僕も自然と口許が緩んでしまうと、なんだかさっきまでの焦りが嘘のようにどこかへ飛んでいく。
「ねぇクレイン、どうして此処に来たの」
「え…」
「引っ越して来る前に聞いてたの、此処は廃墟だから誰も近づかないって」
彼女の澄んだ水色に僕が映っている。
困惑と戸惑い、そして後ろめたさを含んだ僕が其処にははっきりと映っていて何だか情けない。
問いかけられた疑問に僕は直ぐ返事をすることができなかった。なにせ僕は今目の前にいる彼女をお化け扱いした上その恐怖を払拭するがために此処に来たのだから。
そんな僕の自分勝手で最低な事なんか、恥ずかしくてカッコ悪くて申し訳なくて…言うことなんて出来ずただただ黙ってしまう。
彼女はまっすぐに僕を見つめてから、返事をしない僕に目を細めた。
きっと怒るだろう、そう思いながらも彼女を見つめていると細めた目をそのままに口許が弧を描く。
「クレイン」
「な、なに?」
「また明日も来てくれる?」
「…でも、僕なんかが」
「クレインが良い。ね、来てくれるでしょ?」
彼女は僕を見て笑ったままだった。
此処に来た理由を聞かないで、それでも僕が来ることを望んでくれる。
なんでこんな僕を望んでくれるのかが分からなかった、だけど嬉しくて…それと同時に申し訳なくて真っ直ぐに見つめてくる瞳が少しだけ怖くて僕は俯く。
そんな僕を見て彼女は首を傾げてから立ち上がり、俯いた僕の顔を上げるために掌で頬を押さえて上を向かせた。
酷く冷たい手だった、そう言えばさっき手を握られた時も冷たくて…あの時は僕の体温が馬鹿に高くなっていたせいだと思っていたけどそうじゃなかったらしい。
この子が、冷たいんだ。
「待ってるよ、クレイン。クレインだけが来てくれるの、待ってる」
「………来なかったら?」
「来てくれるよ、だって優しいもん」
優しいなんてそんなことはないのに、どうしてか自信ありげに囁く彼女に否定の言葉が言えなかった。
僕は彼女の手の甲に手を重ね一度だけ頷くと嬉しそうな笑い声が耳を掠める。
小さな小さな子供のような無邪気で明るい声なのに、どことなく艶のある声色にドクリと心臓が音を立てた。
この心音がどんな理由で高鳴ったのかなんてわからない、怖さでもあるし揺らぎであることも確かで、一概にどれとは言えない。
だけど嫌なものではないんだ。
そして僕たちは約束をした。
彼女は僕を待ち、僕は彼女に逢いに行く。
ただそれだけ、時間も場所も決めていない、曖昧で不確かで決定的ではない約束。
それでも、どうしてか僕には破れない強い拘束のように感じた。
まるで、そう…呪いだ。彼女は僕を見て微笑む。僕はそれを見て背中が、胸が粟立つのを感じる。
これが僕と彼女の出逢いで、始まりだった。
人間なのにお化けのような現実味のない彼女は、酷く冷たい肌を持った温かみのある女の子で、そう…きちんと素足を持った、女の子だった。
おばけの君
(お化けなんて、似つかわしくも無いなって今は思うよ)
(お化けなんて、似つかわしくも無いなって今は思うよ)